古式ゆかしい900年の歴史と伝統を誇る流鏑馬祭りや、棒踊り、鎌踊八月踊りは国家安泰、五穀豊穣、悪疫退散を祈願して行われます。流鏑馬祭りの時には綱引き大会や各地でスポーツ大会も同時に開催され、毎年大勢の観客で賑わっています
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語源
流鏑馬は騎射(うまゆみ)の一種で、疾走する馬上から鏑矢(かぶらや)を的を目掛けて射るので流鏑の字が使われた。 |
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流鏑馬の起り
白河上皇の代永長元年(1096年)いまから898年前に初めたと古書にある。また、鎌倉初期にできた保元物語、平治物語の中にも流鏑馬のことがでている。鎌倉時代は盛んであったという。 |
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高山町での始まり
肝付氏(きもつきし)が高山に居住したのは、長元9年(1036年)いまから962年前とされていますが、流鏑馬が行われたのは、それから約100年位後のようで、いまから862年位前にあたるようです。 高山の流鏑馬は昭和28年頃まで麓の青年たちが取り仕切って射手(いて)もその青年たちが選定していたが、その後、流鏑馬は町全体の伝統行事として残そうと、保存会を作り町内の中学生のなかから射手を選定している。(昭和46年2月に町の無形民族文化財に指定される)県内では、高山町の他、末吉町、吹上町の三カ所にこの神事が伝承されています。
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流鏑馬行事の意義
国家安泰・悪疫の退散、五穀の豊穣を祈願して行われる年占いで、いまもこの願いはこめられている。 |
左(射手) 右(後射手) |
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射手について)
明治2年頃からの射手の氏名が杉板に記録されているが、 最年少は数え12歳もいるし、15〜16歳が多い。現在は中学1・2年生で13・14歳が多い。また、昔は二騎走ったこともあった。 |
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汐がけパレード |
当日までの行事の要約
射手は1週間前から宮籠りをしていたが、現在は、流鏑馬当日の2日前に柏原浜まで汐がけに行き、その日から家には帰らず、町役場隣のコミュニティーセンターの一室に注連縄を張り、そこに籠もる。そして、当日の午後0時に射手は
一人 高山川に行き(途中生き物と会ったら出直す。)身を清めるなど斎戒沐浴のきびしい行事をこなす。 |
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汐がけの様子 |
射手の服装
水干(狩衣の一種で絹製) 直垂(ひたれ)の類、行騰(むかばき)、射篭手(いごて)、烏帽子の装束で乗馬、弓矢頭上にかざす。 |
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射手の服装 |
騎馬行列の順序
ひょうたんざし−しおふり−射手−後射手−傘持ち−矢持ち(3人)−的持ち(9人)−鎧武者−供奉(ぐぶ) |
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的
昔は桧板、現在2尺〜2.2尺(60cm)角の杉板、9本。射られた的は魔除けとして貰い手が多い。的の中心に当たった矢は籠り矢といって神前に供える。 |
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的 |
期日
昔は旧暦の9月19日、新暦10月19日(四十九所神社大祭日)であったが、現在は
10月の第3日曜日 |
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流鏑馬祭りの当日は、出店が100件以上も並ぶ歩行者天国や各地でスポーツ大会、玉入れ選手権、やっさん踊りのパレードなどいろんな催し物もあります。 |
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